白鳥塚古墳(白鳥御陵)


加佐登神社:白鳥塚古墳

 

「 しらとりづか」と読みます。

 加佐登神社の北西約200mにある「帆立貝式古墳」で、古くから日本武尊の御陵として伝えられております。

 

 昔は、鵯(ひよどり)塚・茶臼山・丸山などと呼ばれていました。江戸時代中期の有名な国学者である本居宣長、平田篤胤らによって、平安時代の書物『延喜諸稜式』に記される日本武尊の墓「能褒野墓」であると考えられ、諸国に広く知られることとなりました。

 

※本居宣長は『古事記伝(巻29)』の中で、この白鳥塚を「上代の御陵どもの状なり、まづは此ならむとぞおぼゆる」と記され、その後、平田篤胤は京都に赴く際、白鳥塚・御笠殿社に詣で『御笠殿社由来記』(加佐登神社所蔵)を著されました。

 

 明治9年には、明治政府教部省によりヤマトタケルの墓として正式に治定されましたが、その3年後の明治12年に亀山の丁子塚へと改定されるに至ります。そののち、この古墳は昭和12年に三重県史跡に指定され、現在に至ります。

 

 平成の半ばまでは、三重県最大の円墳として認識されておりましたが、平成17年の発掘調査によって、以前から円形(円墳)とされておりました古墳の形が、実は帆立貝の形(帆立貝式前方後円墳)であることがわかりました。古墳の大きさは墳長80m(全長90m)、後円部の径64m・高さ9mです。

 

 江戸時代、この高宮の地(現在の加佐登町)は、東海道の宿場町「石薬師宿」と「庄野宿」の間に位置していることもあり、都や伊勢へと向かう旅人たちが立ち寄るには最適の場所でした。東海道中の名所の一つとして、多くの浮世絵に描かれております。

 


「日本武尊能褒野陵並御笠殿、伊勢鈴鹿郡高宮付近絵図」富岡鉄斎


加佐登神社:富岡鉄斎巻物巻頭絵図

 

 富岡鉄斎が記した巻物の巻頭部分に記されている、明治時代の高宮付近の様子です。(当社蔵)

 

 日本武尊の父君景行天皇(第12代)が、尊が亡くなられた後、この地に仮の宮〜行在所(あんざいしょ)を置かれたことから、明治までこの地は「高宮」と呼ばれておりました。

 

 まだこの頃は、村内の各神社が合祀されておらず、「熊野神社」が椎山の下方にあり、現在の加佐登神社は「御笠殿社」と呼ばれていました。熊野神社の後方に延喜式内社「倭文神社」がありました。

 

 御笠殿までの石段は「其の数知らず」と言うほど 鳥居で埋め尽くされていたようです。(現在は、鳥居から石灯籠に様変わりしています。)

 

 この巻物は、鉄斎の晩年(大正5年、81歳の頃)、このあとに描かれている白鳥塚石室発見の図とあわせ、大鳥大社の社務所で記されたようです。

 

(※巻物は一般に公開はしておりません。過去に一度だけ、平成15年9月に熱田神宮でヤマトタケルの企画展があった際、特別に熱田神宮宝物館で一月間貸出、展示されたことがあります。)

 

[富岡鉄斎(とみおかてっさい)

 明治〜大正にかけての文人画家。日本最後の文人と謳われる。儒学者であり、神官。明治維新後の神社復興に尽力する。石上神宮や大鳥大社などの宮司を務めた。鉄斎が青年の頃、当社家に書生として寄宿していたことから、当社とは深い縁がある。